2006年02月08日
理由にとらわれる心
とある大型書店で本を探していたときのこと。わたしが本を立ち読みしていると、幼い子供を連れたお母さんが本を物色しながらわたしのすぐそばまでやってきました。ちょうどわたしが立っている右斜め前方に売れ筋とされる新刊がうずたかく積まれていたのですが、母親に連れられてわたしのそばにやってきた子供が、なんの気なしにその本を手で触れたのです。すると積まれていた本がバランスを失い崩れてしまいました。お母さんは崩れた本を元通りに直しながら「どうしてこんなことをするの!あれほど勝手に触っちゃダメって言ったでしょ!」と子供に怒ります。子供は指を口にくわえて、ただただお母さんをジッと見つめていました。このときの子供はどんな心境だったのでしょう。
お母さんの立場からすれば「勝手に触っちゃダメよ」と言いつけていたのにもかかわらず、子供はその言いつけを破ったわけなので「どうして?」と疑問に感じる気持ちは分かります。しかし、これはあくまで親としての立場から子供を見ているわけで、このままでは子供の気持ちを理解することができません。自分がその子供と同じ年代だった頃、同じような状況で目の前にうずたかく積まれた本を見たとすれば、いったいどのようなことを感じていたのだろうか。そのように考えてみると子供の気持ちがなんとなく分かる気がします。わたしがその子供と同じ年頃だったなら、「これはいったなんだろう?」という好奇心から本に触ったかも知れません。もしかすると、つまらない場所に連れてこられて、しかも得体の知れない物になにやら夢中になっている母親の姿を見て、母親の気を引くためにわざと言いつけを破って本に触ったかも知れません。いずれにしてもこれらは「動機」であって「理由」はないと思うのです。今回のような場合でも「どうして?」と聞かれれば子供は「ただ、なんとなく…」としか答えようがないという気がします。それよりも「どうしたかったの?」と聞いてあげた方が子供は答えやすいのではないでしょうか。
話が変わりますが、わたしの父親は両足が不自由な身体障害者だったこともあり、家で紳士服(スーツ)の縫製・仕立てをする仕事をずっとやってきました。仕事以外はどんなことでも楽天的でいいかげんな人でしたが、仕事のことになると徹底的にこだわるガンコさを持っていました。たとえば、縫い方が少しでも悪いと、糸を全部ほどいて最初から縫い直すほどのこだわりようです。そんな父親の仕事を見ている母親は「それぐらいええやんか。ちょっとぐらい手を抜いて量をこなした方が金になる。なんでわざわざ糸を抜いてまで縫い直すんや?」と言います。それに対して父親は「うるさい」の一言だけを言って黙々と仕事を続けていました。このような場合でも、少し考えればいろんな理由が思い浮かぶはずです。「この服を着る人のためにも手を抜くことができない」だとか「信用がなくなれば次の仕事がこなくなる」だとか。ですが父親は理由を言いません。おそらく父親にしてみれば理由など必要なかったのでしょう。「作る自分も、売る人や着る人もみんなが納得できる仕事をしたい」ただそれだけだったのではないだろうか。いまとなっては父親に確認できないので分かりませんが、なんとなくそんな感じだったのかな、と思っています。
自分がとった行動について他人から「どうして?」「なぜ?」と聞かれると、人によっては一生懸命に頭を働かせて理由を考える人がいます。じつはわたしもそうです。仕事においてもプライベートにおいても、人から「どうして?」と聞かれると、無意識に頭の中で「つじつま合わせ」をしながら、必死になって理由を考えていました。たしかにわたしも幼い頃は親からよく「なんで?」と聞かれていたもので、答えられないために黙っていると「黙ってたら分かれへん!はっきり言いなさい!」と畳み掛けるように言われたものです。怒られるのがイヤだから、なんとかしてでもつじつまが合うように理由を考える。どうしてもつじつまが合わないようであれば、その理由の中に「ウソ」が含まれることだってあります。しかし、そうでもしないと親から責められる一方だったので、理由の中にウソが含まれていてもいいから、なんとか自分を正当化しようと必死だったのでしょう。そうやって自分を無理に正当化する「良くない癖」が身についてしまった、といえます。
人は自分の欲望や目的に基づいて行動するものであって、その行動に理由はないように思います。ですから「どうして?」と人から聞かれると、頭の中であれこれ理由を探すことになってしまいます。わたしが通っているカウンセリング教室の先生から「考えるより感じろ」とよく言われます。それはきっと、あれこれ自分で「どうしてなのか?」と考えるより、自分は「どうしたいのか」を感じなさい、ということが言いたかったのだと思います。「~だからできない」とか「~だったらよかったのに」というのも自分を正当化する「理由」の一つとして考えられます。わたしはまだ「理由」のマジックから完全に解放されているとは思いませんが、それでも「どうして?」だとか「~だったら」「~だから」と考えていることに気づいたら、自分で「理由はない」と言い聞かせ、そして「本当に自分はどうしたいのか?」「どうしたかったのか?」という目的にフォーカスを当てるようにしています。また、人から「どうして?」と聞かれたとしても、無理に自分を正当化しようとせず素直に「こうしたかった」と伝えるように努めています。
理由にとらわれず、あるがままの自分でいよう。
理由にとらわれていると、素直な心に重い鎧を着せることになってしまうから。
- by しんいち☆
- at 2006年02月08日 11:41
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